2.



 頭上から流れてくる電車の到着を告げる音に、少年は夢から引き戻された。
 臙脂色の細いライン線の入った半袖のシャツに、明るい紺のズボン。胸にあしらわれた校章を見れば、二駅先の私立高校の生徒とわかった者もいたかもしれない。ありふれた学生姿の少年は、一瞬、自分がどこにいるのかわからないとでもいうような表情を浮かべ、あたりを見回した。
 少年の困惑をよそに電車を待つ人々の間にはそわそわとした空気が静かに、速やかに満ちてゆき――そうして滑り込んできた電車が各車両の扉を開くと、人々ははやる気持ちとともにそそくさとそこに乗り込んでゆく。聞こえてくる駆け込み乗車を控えるよう注意を促す声もどこか遠く、現実味を帯びない。「扉が閉まります」と忠告するアナウンスごと階段を駆け下りて飛び込んだ最後の乗客を飲み込んで、人々を乗せた鉄の箱はゆっくりと――やがて速度を上げて走り出した。
 その後には、ただぼうっとその場に突っ立ったままの少年が一人、ホームに残される。夢の残滓を振り払うように、少年はかぶり頭をふった。
 明け方に見た夢は目覚めてから大分時が経った今も体の中を霞のように漂い、ふとした瞬間に意識の表層へと浮かび上がってくる。そのせいか起きた直後の気だるさは抜け切ることなく内側に残留し、外へ追い出そうとしてもなかなか思うようにいかない。さっさと朝の光に溶けてしまえばいいものを、それはのろのろと遅速に体内に留まって、四肢を、思考を鈍らせているようだった。  去ってゆく電車をぼんやりと見送って、少年は電光掲示板の時計に目をやった。
 時刻は7時42分。
 少年が駅の改札を抜けてここに立ってから、かれこれ15分が経過しようとしている。
 「明日お前の登校時間に合わせるから、駅で待ち合わせようぜ」――そう言って理由も言わず、こちらの了解も取らないままに学校からの帰路を分かった友人は、案の定、約束の時間には現れていない。
 予想していたこととはいえ・・・・・少年は、諦め混じりに小さく息を吐き出した。
 そもそも、今までの経験からいって、あいつの"至急の用件"が本当に至急であった試しがないのだ。おそらく今回だって、学校で聞いたって十分間に合うことなのだろう。深刻に考えてここで待つ必要もない。
 次の電車が来るまでに現れなったら先に一人で行ってしまおう――そう一本目の電車を見送ったとき決意したはずだったのだが、考え事をしていていたのと、いくら一方的だったとはいえ、一度交わした約束を反故にすることはしたくないと心のどこかで思っていたせいで、乗るタイミングを逃してしまった。結果、少年はいまだこの駅のホームから動けずにいた。
 これ以上遅くなるようだったら、携帯に連絡を入れてくるはずだ。それがないということは――いつも通り家を出てきているに違いない。だとすれば次の電車が来るまでにはいい加減現れるだろう。
 漫然と友人を待ちながら、少年はホームの向こうに広がる景色を見るともなしに見つめる。
 ほんの数日前まで艶やかに咲き誇っていた丘の上の桜も、とうの昔にその薄紅の花を振るい落として、今は見る影もない。開花以降、花を散らすほどの雨に降られる様子もなかったため、今年は長く花を楽しめるかと思った矢先だったのだが――急くように到来した夏の気配に桜たちは早々と衣替えを済ませてしまった。もはや枝には花びら一つなく、若葉と呼ぶにはそろそろ色濃くなった葉が揺れている。その様子に、まるで追い立てられる春の足取りをこの目で見ているような気さえした。
 風が吹くたびに揺れて奏でる葉のざわめきに、ふと少年は明け方の夢を思い出す。
 あの、草原に立ち尽くす夢。
 いつもなら見たことさえすぐに忘れてしまうにも関わらず、あれだけは今も忘れずに覚えている。ここ数日繰り返し見ているからなのだろうか、断片的で前後が曖昧でありながら、あの風景だけは鮮やかに思い浮かべられる。
 耳に残る風の音。そして――あの声。夢の中の幼い自分は、あの場所で誰かを待っていた。声が待っていた相手のものだったのはわからないが、幼い自分ははぐれてしまった母親の姿を求めるかのように、あの声の主を探していた。だが、少年が駆けてゆく姿を見た瞬間に芽生えたのは、流れ込んでくる彼の焦燥と希求の感情ではなく、自分自身の漠然とした恐怖と不安。空気の塊を飲み込んだような圧迫感と、脳に氷を埋め込まれたかのような冷ややかな感覚が身体を支配する。
 行っては行けない、その声に応えてはいけない――
 ・・・・・なぜ、そんな風に思ったのかはわからない。ただ、彼を止めなくてはと必死に手を伸ばす自分がいた。どんなに足掻こうとその手が届くことはないと、心のどこかで冷めた思いを抱きながら。
 そして、夢は唐突に終わる。
 ――夢の中の自分は、いったい何を恐れていたのだろう。あの世界に立っているときは確かにわかっていたはずなのに、目覚めてあれがただの夢だと認識してしまった今となっては、彼はもはや自分の内で理解できる存在ではなくなっている。答えを知っているのに思い出せない――それがもどかしくて仕方がなかった。
 意識が内へ内へと向かうほど、周囲の人も、景色も、声も音も、すべてが遠い世界のことのように思えて、自分が今立っている場所が現実のものなのかわからなくなる。目に映る風景はスクリーンに映った映像で、聞こえてくる音はすべて電波を介して届くもの。自分一人が薄い膜の内側に隔離されているような錯覚に浸りながら、少年は自分の考えに没頭していた。
 ――だから、待ち人が近づいてきたのにも気付かなかったのも仕方がないといえばそうなのだろう。
 滝本篤史の存在に気が付いたのは、あいさつとともにその背中を勢い良くはたかれた後だった。
「よう一哉、おはよう!」
 ふいの攻撃に「一哉」と呼ばれた少年はびくりと肩を震わせる。その拍子に肩にかけていたスポーツバックが腕へと滑り落ちた。
「あ――」
 バックが地面に着いた衝撃で、ポケットから何かが転がり出る。
 小さな金属音を立てて落ちたそれを、篤史は慌てて拾い上げた。
 彼の手の中で細い鎖がチャリ、と音をたてる。
「悪い。これ・・・・・」
 おずおずと篤史が差し出したのは、年代物の小さな金の懐中時計だった。女性用のものと思われる華奢なサイズの時計は、無残にも文字盤のガラスにひびが入って針は時を刻むこともなく止まっている。落とした衝撃で壊れてしまったのかときまり悪そうに謝罪する友人に、一哉は首を振って見せた。
「いいんだ。これは最初から壊れてるんだ」
 時計を受け取ってそう言った一哉に篤史はほっと胸を撫で下ろし、次いで怪訝そうな視線を一哉と時計とへ向ける。
 女物で、しかも壊れて役に立たない時計――なんでお前、そんなものを持ち歩いてるんだよと、その目が問う。
「今朝、辞書を探してたとき偶然見つけて、とっさに持ってきたみたいだな」
 入れたのは間違いなく自分であるにもかかわらず、それがここにあることをすっかり忘れて、一哉は他人事のようにつぶやく。
 篤史は一哉の返答をなんとなく釈然としないものと聞いていたが、それ以上興味が湧かなかったのか、「そうか」と言って時刻表に目を移した。ちょうどデジタル時計の表示が変わって、「電車がまいります」と赤の文字が点滅を始める。
「いやぁ、間に合ってよかった」
 そう明るく言ってのけた友人に、一哉は恨めし気な視線を向けた。
「全然間に合ってないだろ。僕の登校時間に合わせるからって話じゃなかったのか? どれだけ待たせれば気が済むんだよ」
「悪かったって!」
「悪い」と謝っている割には悪びれた様子は微塵もうかがえない。ちょっと考えればわかることだろ――と、毒づいてやる気力も失せて、一哉は大きくため息をこぼした。
「朝早く学校に行ったって特にすることもないし、それだったら時間いっぱいまで寝ていたい」と常々主張している人間にとって、いつもより二十分も早く家を出るということがどれほど至難の業であるか、考えも及ばなかったらしい。
 頭上から、篤史にとっては本日最初の―― 一哉にとっては三度目の案内放送が流れ出す。
 耳に馴染んだ滑走音がだんだんと近づいてきて、ホームに黄色のラインが入った電車が姿を現した。勢いよく空気を吐き出しながら銀の扉が左右に口を広げる。篤史はぽんっと一哉の肩を叩いた。
「早く乗ろうぜ! これに乗り遅れたらホールームに間に合わなくなる」
 何か、納得がいかない。納得はいかないが―― 一哉は、肩をすくめた。
 こんなところで子供みたいにごねていても仕方がない。乗らないわけにはいかないのだ。
 一哉はスポーツバッグを背負いなおすと、篤史の声に引きずられるように電車に乗り込んだ。