――その言葉は言えない――
頬に降る、熱い雨。
ふいに甦った感触が、少女を責め立てる。
(あたしのために。あたしのせいで――)
少女はか細い両手で震える肩を抱いた。
わたしが病室にいるのは、崖から落ちたから。
痛みはないのに、引きつったような感覚の消えない手足。目をつむると蘇ってくる、背中に広がっていった血の温み。――わたしを見下ろす、二つの瞳。あれは――
その瞬間。少女はすべてを思い出した。
懐かしい思い出と、恐怖の記憶――その、すべてを。
「元の世界に帰りたい?」
問いかける声に、少女はうつむいて小さく肩を震わせている。
少女が堅く、堅く手を握りしめて耐えているのを見て、彼は帰れないかもしれないことに脅えているものと思い、安心させるように優しく微笑みかける。
「帰れるよ。幸い、君には戻るべき身体が残っている。君がそう強く望むなら、帰ることも・・・・・」
「だめ!!」
それは、強い怯えを含んだ拒絶だった。
そんな答えが返ってくるなど、予想外だった。この少女の望みはこの自分が一番よく知っている。ほかの答えなど、あるはずもないのに。
「だって・・・・・だって、あたしは死んじゃったんだよ? がけから落ちちゃったの・・・・・! 血がいっぱい出て――それで・・・・・それで・・・・・!」
必死に並べ立てる言葉がいい訳に過ぎないことを、少女は誰よりもわかっていた。
帰れない理由はそんなことではない。
わたしが落ちなければ、あの子は傷つかなかった。わたしがあの子を傷つけた。
あの子は優しいから、あやまればゆるしてくれるかもしれない。でも――
ゆるしてくれなかったら?
わたしは・・・・・どうすればいい?
もとの場所に戻ったとき、そこで待っているだろう出来事を想像して、少女は一度は口にしかけた望みを飲み込んだ。
少女の想像が現実になるかどうかなど、誰にもわかりはしない。ただ、在りうるだろうその可能性が、少女には戻れないことよりも恐ろしかった。
「かえれないよ・・・・・」
少女のかすかな吐息が、闇に融けて消えた。
それから、どれくらい経っただろうか。
映し出されていた景色も今は消え去り、闇はただ最初と同じ暗い静寂を湛えている。
少女は口を閉ざしたまま。
そして、それを見守るものも、ともすれば寄り添う影のように空気のようにそこにたたずみ、少女の言葉を待っている。――少女が自らの意思を示すのを。
「わたし・・・・・ここにいてもいい?」
しばらくして、少女は彼を見て言った。
「それが君の願いなら」
「わたしは、もうかえれないもの」
少女の言葉に、彼はそっと口を開いた。唇の震えは言葉を作り、何かを伝えたが、少女は首を横に振った。ただ、重さのない無気力感が、身体にのしかかっている。
「かえれないから――ここにいる。・・・・・いてもいい?」
悲しみ。あきらめ。絶望。さまざまな感情に揺らめく瞳。なんと弱々しく、愚かなことだろう。少女のためらいが何を生み出すというのか。自身の望みにすら背いて、彼女は何を得るのだろう。本当に愚かなことだと、青年は胸中で呟く。
その一方で、少女に興味を抱き始めている自分に気がつく。真っ直ぐに自分を見つめ返すその瞳に心惹かれる。この感情を何と呼ぶのか――彼はまだ知らない。
青年が、そっと少女の頭を撫でる。
「・・・・・大丈夫。この世界だって、慣れれば楽しいさ」
そう言うと、膝を折り、少女と目線を合わせて、問う。
「ねえ、君、名前は?」
頭を撫でられたことにくすぐったそうにしながら、少女がそっと青年に耳打ちをする。秘密の、内緒話をするように。
二人が顔を見合わせて微笑みあう。
「私の名はカナン。この世界を管理するために人間たちによって生み出されたもの。――以後、お見知りおきを」
そう言って彼は背筋を伸ばして立つと、被っていた帽子を胸に抱えて優雅に一礼してみせた。
少女がその言葉の意味を理解するのは、それからずっと先のこと。
ただわかっていたのは、このヒトといれば、大丈夫な気がするという、漠然とした信頼。
世界はまだ闇の中にあったが、少女はもう、それを怖いとは思わなかった。
少女は、月を見つけたから。
彼は少女にとって、淡い金色の光でその足元を照らす月になったのだ――。
「さてと。なにはともあれ、まずは私のお茶会にご招待したいな。うさぎさん?」
「うさぎ?」
カナンが悪戯っぽく微笑んで、左右で二つに結わえた少女の髪を示す。それを"うさぎの耳"と、彼は言っているらしい。
「最初に会ったとき、目も赤かったしね」
微笑んで差し出された手に、少女の小さな手が重なる。
悲しくないわけではないけれど、この手は温かいから。
「あたし、うさぎさん好きよ」
「それは良かった」
そう言うと、カナンは手前の闇に向かって何かを掴んでみせる手振りをしてみせた。
何もなかった空間に亀裂が走り、光が差し込む。白い筋が彼の手の中にドアノブを、目の前に扉を描き出す。
「さあ、どうぞ」
カナンは開かれた扉の横に立つと、その小さな手をとって明かりが射す中へと、少女を招き入れた――。