たとえば――月のない夜。
吹く風もなく、雲はそのかたちを変えることはない。ただ地上へと降り注ぐはずの光を一身に受けて、かすかに青白く輪郭を浮かび上がらせている。――そんな闇月夜を思わせる世界。
自分の手すらも見分けられないほど暗いわけでもない。けれど、その足元に影を生み出せるほどの明るさもなく――真の闇と呼ぶにはあいまいな暗青色の《夜》。
そこに、少女はいた。
少女――と、そう呼ぶにもまだ年足りないかもしれない。幼い瞳は不安と恐怖に苛まれて、所在なく辺りを彷徨っている。
少女は待っていた。
母を、父を、祖母を、友人を――。いつも、こうしていれば必ず迎えにきてくれた「誰か」を、少女は待っていた。しかし、現れる者の姿はなく、少女は依然、たった一人。
その場でただ待ち続けることに耐えきれなくなって、少女は恐る恐る暗がりの中へと足を踏み出した。
光のない世界では道はあるようでなく、向かうべき標もないまま、少女は立ち止まり、立ち止まりしながらも、前に進む。しかし、歩くほどに不安は増すばかりだった。
誰も、何もないその場所は果てなく続いて、それが少女により一層の孤独を与える。この世界には、ただ一人が在るだけ。けれど、その一方で視界の利かない奥の奥には何かが潜んでいるような気がして、彼らの好奇の――あるいは敵意のまなざしを感じて、少女は再び立ち尽くした。
どうして――
どうして、自分はこんな寂しい場所にいるのだろう。
自分がいた場所は、ここではなかったはずだ。
けれど――
(でも、それなら・・・・・どうしてわたしはここにいるの?)
投げ出された問いは行き場もなく少女の中に降り積もって、少しずつ心を侵食してゆく。
どうして、
どうして、
どうして・・・・・!
わかるはずもない。すべては闇に囚われ、それまでの記憶をたどろうとすればするほど、それは白霧に隠されて一向に形を結ばない。少女はもう、限界だった。
混乱と恐怖の混在した感情ばかりが内からあふれて、少女はいつしか嗚咽を漏らしていた。すすり泣きは次第に大きくなり、一度あふれ出した涙はとめどなく流れては、少女の頬を濡らしてゆく。
泣き叫ぶ声が、闇に融けて消えていった。
誰もいない。
ここには、この暗闇しかないのだ――
少女が認めざるを得ない現実を受諾しようとした、その刹那。
突如、背後から声がした。
「ようこそ、〈+α〉の世界へ」
驚きのあまり、少女はその言葉が自分に向けられたものだということをとっさに理解できなかった。
恐る恐る、声のした方を振り返る。――そこには年の頃20歳ほどの女性が、柔らかな微笑とともに立っていた。
「おやおや。大丈夫? 目が真っ赤だよ?」
泣きはらした少女の顔を見て、暗赤色に黒の、「不思議の国のアリス」に登場する"帽子屋"を思い起こさせるような衣装に身を包んだ女性は、ほんの少しおどけた口調でそう言った。
少女は――といえば、それまで泣いていたことも忘れて、ただただ目の前の人物を凝視していた。
いつの間に現れたのだろう――そんな疑問もいっぺんに吹き飛んでしまうような衝撃。少女は泣いていたときとは別の意味で頬を紅潮させて、陶然と目の前にある顔を見つめる。
なんて、きれいひとだろう・・・・・!
息を呑むほど美しいとは、きっとこのことだ。寸分の狂いもなく形作られた目鼻立ちに、白い肌を縁取る髪は深く艶やかな黒。中でも少女が一等惹きつけられたのは、その瞳だった。髪と同じ黒でありながらその印象は驚くほど違う。髪の黒が混じりけのない純粋な黒ならば、その瞳はありとあらゆる色を溶かし合わせたよう。時折、青に、灰色に、碧に揺らめいて神秘の光を灯すそれを、少女は陶然と見とれた。――見とれながら、少女は同時に奇妙な違和感も覚える。頭の、心のどこかで何かがささやく。これは、人間ではないものだ――と。そのひらめきは、あながち間違いではないように思えた。
でも、このヒトが人間ではないのなら、いったいなんなのだろう。
「お姉さん・・・・・だぁれ?」
思いのままに紡がれたその問いに、美しいヒトはなぜか困惑したような、驚いているような表情でしばし少女を見下ろしていた。彼女の示す感情が何を意味しているのか、少女にはわからない。だが、やがて彼女はおかしそうに笑って言った。
「お姉さんってわけではないんだけどね」
「じゃあ、お兄さん?」
そしたらずいぶんときれいなお兄さんね、と少女がつぶやく。
「お兄さん・・・・・まあ、お兄さんってことにしておこうかな」
くすくすと含み笑む彼女――「彼」のその物言いに引っかかるものを感じながらも、一応は納得したのか、少女は小さく頷いて見せた。
そんな少女を面白そうに見つめて、彼はやさしく話しかける。
「ね、君は――いくつ?」
「7歳」
聞いてから、彼はふうんと頷く。
「・・・・・ここには、君みたいな小さな子はほとんど来ないんだけどな」
ぽつりとそうつぶやかれた言葉に、青年の出現で一度は吹き飛んだ良くない感情がじわりと滲みゆく。
「ねぇ・・・・・ここは、どこなの?」
記憶は戻らないまま。何も思い出せないまま。
「どうして、わたしはここにいるの?」
不安に怯えて声を震わせる少女を見つめながら、彼がゆっくりと口を開く。
「ここは、生と死の狭間、現実との歪みに存在する、人間の心が生み出した場所。君は、心だけここに来ているんだよ。身体は・・・・ほら、そこに」
冷ややかな空気がそっと背中を撫でたように思えた。
何気なく見上げた彼の表情は、能面のようになにも映さない。
少女は、その顔に得体の知れない恐怖を感じながらも、恐る恐る青年の見つめる先を見る。
スクリーンに浮かびあがる映画のような、どこかの風景。
「あれが君」
彼は音もなく少女の隣に並ぶと、その映の向こうを指し示した。
「あそこは・・・・・・?」
「病院。ほら、君はまだ生きているよ。・・・・・まあ、君が帰らないつもりなら、そう遠くない未来にあれは動かなくなるけど」
ほんの少しまで少女と同一であったものの半分を、彼はこともなげに「あれ」と言った。
「人間は――さ、身体だけじゃ生きられないんだよ。心、魂――いろんな言い方されるけど、それが揃って、初めて人間は生きるんだ。息をしていても、心臓が動いていても、何も感じず、何も思考しない生き物は生きているとは言わない――君たち人間がどう思っているかは知らないけど」
傍らで青年が語るのを頭の隅に聞き入れながら、少女の目と心は幻のように闇に浮かぶ光景を見つめる。
映し出された白い病室。その中で整然と並べられた医療機器に囲まれて、少女の身体はベッドの上に横たえられていた。白い病室の色に透けるような肌。その腕にも、頭にも、痛々しいほどに包帯が巻かれている。
その傍らには、ひとりの女性が寄り添っていた。――少女の母親だ。普段の明るい表情はどこにもなく、深い悲しみと疲労に彩られ、祈るように少女を見つめている。
そんな顔をさせているのが自分だと思うと、いたたまれなくなった。
「帰れる」――と、このヒトは言った。
帰りたい。
帰りたい。
繰り返し、繰り返し、祈るように心の中でつぶやく。
元いたあの場所へ。
温かく、優しい人たちがいるところへ。
そう叫びかけて、少女は凍り付いた。